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ヴィパッサナー瞑想体験記

昨年末から新年の正月にかけて10日間、念願の「ヴィパッサナー瞑想」の合宿に行ってきました。

ヴィパッサナーとは…

 

「ものごとをありのままに見る」という意味のヴィパッサナーは、インドの最も古い瞑想法のひとつです。この瞑想法は2500年以上も昔、インドで、人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されました。

日本ヴィパッサナー協会HPより

 

この伝統的な瞑想法をベースに、ミャンマーの思想家サヤジ・ウ・バキン、S.Nゴエンカらが確立した瞑想法が、今日「ヴィパッサナー瞑想」としてポピュラーになっているもの。

日本には千葉と京都の2カ所に拠点施設があり、一般の参加者向けの10日間のコースを定期的に開催しています。

私が行ったのは、京都の京丹波にあるセンター「ダンマバーヌ」。施設は山林に囲まれ、スマホの電波も届かない、俗世間からは隔たった場所にありました。

 

そこで10日間の間、施設の外に出ることも、外部に連絡を取ることも許されず、ひたすら一日中瞑想三昧という、シリアスかつシビアな日々を過ごすのです。

 

参加するにあたって、私の予備知識や事前準備は全くなし。今までいろんなところに行ってきたし、まあ出たとこ勝負でなんとかなるだろう、と楽観的に(甘い気持ちで)参加を決めました。(結果的には、知らなかった故に色々痛い目にもあい、もう少し事前準備をしていけばよかったな、と反省しました。)…

 

さて、コースの毎日の生活は、以下のような感じ。

朝4時半 瞑想開始
6時半 朝食
8時 グループ瞑想開始
11時 昼食
14時半 グループ瞑想開始
17時 軽食
18時 グループ瞑想開始
19時 講話
20時半 瞑想開始
21時 終了、就寝

 

ほんとうに瞑想三昧!何でもありのゆるゆるの環境にばかりいた私が、そんな厳格な修行についていけるのだろうか?

 

このうち「グループ瞑想」は出席必須で、全員でホールに集って瞑想します。極力体を動かしてはならず、ホールから出ることもできない厳しい時間。それ以外の瞑想タイムは、ホールにいても各自の部屋にいてもよく、(動いても寝ていてもよい)比較的自由です。

 

部屋は数人の相部屋ですが、コース中は他の人と話したり目くばせするなどのコミュニケーションをとることが禁じられています。
個人的には、瞑想よりもむしろこれが一番きつい試練でした。何か困ったこととか伝えたいことがあっても、コースの世話人を通して間接的に伝えてもらう以外に手段がないのです。


そして、他の人が何を考え感じているかが分からないので不安になる。普段当たり前にやっているコミュニケーションが、人と一緒に過ごす上でいかに重要な役割を果たしているかが身にしみてわかりました。

 

 

瞑想の指導は、ヴィパッサナー瞑想の第一人者、ゴエンカ氏による指導のライブ録音の放送にて行われます。

独特の節回しで詠まれるパーリ語(インドの古語)のお経に続いて、貫禄あるミャンマー英語で繰り返し熱心に指導する氏の低い声を聴いているうち「これはついていかねば。がんばってやらなければ」という気分になります。

 

「ヴィパッサナー瞑想」と書きましたが、正確には、10日間のうちはじめの3日間は、呼吸にのみ意識を置く「アーナパーナ瞑想」を専修し、4日目からヴィパッサナー瞑想に入ります。

 

私はこのことを知らず、てっきりアーナパーナ瞑想を10日間ずっとやるのかと思って「これでは飽きるなぁ…」と思っていたのですが…

4日目になると、それまでゆっくりとお経を読み上げていたゴエンカ氏が突然、意気揚々とノリよく唄い出し、それから怒涛のようなヴィパッサナー瞑想の指導が始まります。

キターーーーーー!!

 

ヴィパッサナー瞑想法は、全身各部の感覚をくまなくなぞり、集中を深めていくというもの。アーナパーナと打って変わって動きのあるダイナミックな瞑想法で、また各段にハードルが高い。その日を境に、毎日次々に新たな指示が出され、要求レベルも上がっていくので、もう息をつく暇もなく瞑想に邁進するしかありません。…

ヴィパッサナー瞑想、めっちゃハードや!

瞑想というと、日の光を浴びながらゆったりと座ってリラックスして行うもの、というイメージがありましたが、そんなイメージはすっかり吹っ飛んでしまいました。みずからの心と体の内奥を探求するハードボイルドな冒険、といったところか…

 

瞑想ホールは日の光が入らず、昼夜薄暗く、今何時ごろなのか、ここはどこなのかもわからなくなってくる感じ。
そこへ籠って、体の感覚をひたすら感じることだけに集中するというのは、考えてみれば相当ぶっ飛んでクレイジーです。
ここは現代日本か。やばい。でも、たまにはそういうのも面白い。

 

今回の参加者は、私とだいたい同世代の、おおむね30代~40代の方々が多かった様子。ふだんは仕事をしていたり主婦をやったりしているような普通の人たちが、大真面目に、微動だにせず瞑想に没頭する。なんだか不思議な時空です。

瞑想タイムは1コマが1時間と長丁場。足が痛くなってゴソゴソ動いたり、瞑想に飽きて動き回ったりしながらも、自分の感覚が日に日に変わっていくのが分かったり、これまでの人生を振り返って色々なことに気づいたりなど、実りあるエキサイティングな時間でした。

 

これまで、体のすみずみまで意識を向ける機会などなかったため、はじめは感覚を感じようにも、体がそこにあるかどうかすら分からない感じでしたが、日ごとにだんだん少しずつ感覚がつかめてきます。体じゅうにいろんな感覚がひしめきあっていることが分かってくる。チリチリとした微細な感覚や、グワーンとした強い感覚、何も感じない、ぼんやりとした感覚…などいろいろ。それらが刻一刻と移り変わっていくのです。

 

 

仏教では、私たちの感覚も他のすべての現象も、水の流れのように現れては消え、移ろいゆくものであると説きます。そうした無常のものに嫌悪したり執着・渇望してしまうことから苦しみが生まれる。逆に、そうした感覚や現象に呑まれず冷静に観察することで、苦しみの連鎖から抜け出すことができる。そのために瞑想をするというのです。

仏教思想、奥深い。

 

瞑想が興味深い一方、生活面に関しては、他の人の生活音がうるさいとか、他人の目が怖い、自由時間にまったく何もやることがなくて苦痛…などの試練でいっぱい。瞑想はやりたいけど、同時に一刻も早くこの場所から解放されたい!というアンビバレントなところで揺れ動いていました。

 

こっそり車で夜中に脱走しようかなど思い詰めていたのですが、瞑想に没頭するうち次第に気持ちが静まり、もっとよく自分の内面を見たい、もっと集中して瞑想したい、と思うようになっていきました。いい感じです。

 

しかし、いろいろな欲求も沸き起こってきます。私の場合はまずは食欲!インドのお経がずっと流れているので、インド料理が食べたくて仕方なくなり、車で夜こっそり食べに行って何食わぬ顔で戻ってこようかと考えたり…動けなくてストレスがたまっているからか、愛の妄想が淡々とバックグラウンド再生されていたり…

騙しだまし日々を乗り切り、修行が進んできた7日目、8日目にまた、帰りたい欲求が突然強まります。今度こそは帰る!と心を固くするものの、その後の瞑想タイムでその気持ちも再び融解。

帰りたい!→嫌々瞑想ホールへ→瞑想面白い、やっぱり帰らない。という繰り返しが10日間のうちに何度も起きました。人間の心は本当に揺れ動きやすいはかないものです。確固としてそこにあると思われたものが、次の瞬間にはきれいさっぱりなくなっている。一瞬で、まるで違うものになっている。

 

10日目にようやく、おしゃべりが解禁になります。はじめて、他の人と目を合わせたり口をきいたりできる。
はじめて見る、参加者たちの顔。突然、薄暗かった世界がパッと明るく開けました。本当にホッとしました…
私は滞在中、いたるところで色々不審な動きをしてしまっていたので、ずっと、みんなから気持ち悪がられているに違いないと思い込んでいたのですが、皆さん意外にも優しく親切に接してくれたので救われた気持ちでした。

解禁後にも瞑想は続きます。
不思議なことに、解禁後がいちばん落ち着いて集中して瞑想できた感じがします。やっぱり修行をするにしても、生活のうえで気持ちが安心していることが重要なのかなと思いました。…

 

私は20代の半ば頃からシェアハウス生活を始め、もう10年近く、家族以外の色々な人たちと暮らしてきました。なので、人と共同生活をすることに関しては問題ないという妙な自信がありました。
でも今回、たんに共同生活するというのではなく、沈黙の中で過ごすという条件が加わったことで突然、その自信は崩れ去りました。
ちょっとした条件次第で、暮らしは快適になったり、突然厳しくなったりする。

 

今回のコースは、複数の人が口をきかないまま限られたスペースで規律を守りながら共同生活をしたらどうなるかという実験の場でもあったと思います。
結果、一刻も早く逃げ出したいストレスフルな状況に陥った。
安心して暮らすには、人々の声や、笑顔や、気づかいや挨拶が不可欠なのです。

 

もちろん、普通にしていれば人間は自然に話したり挨拶したりするものなので、大概そんなに心配することはありません。
でも場所によっては、ヴィパッサナー瞑想ほど極端ではないにしろ、それらが不足していて居心地の悪い場所もあるかもしれない。

沈黙の中で生活してみて感じたのが、そうした環境が、私のように持病や障害など何らかのハンデがある人にとっては特に過酷であるということ。自分のことをしっかり自分でできる健康な人なら、まだある程度耐えられる。でも、ちょっとした注意書きとか生活するうえでの配慮、人からの助けが必要な人は、他人の目も、手も、声もない世界ではとてもまともに生活できない。…

 

このことは、社会全体のことを考えるうえでも示唆的だと思います。
どこかに無理があって、みんながどこか息苦しい思いをしているにもかかわらず、健康で体力があってしっかりした人たちがなんとかやっていけるから、というギリギリのところで続いている場所があるかもしれない。そこで脱落する人がいれば、弱者、不適合者として顧みられず、当事者は、弱い自分がダメなんだと思わされる。
ほんとうは、健康な人も障害がある人も、若い人もお年寄りも、すべての人が安心して過ごせる場所であるのがベスト。そのためには、どういう条件があればよいのだろうか。…

瞑想の話とは少し離れますが、そんなことを考えさせられる体験でもありました。(個室もあったので、申し込む時に個室でお願いしますと言えばよかったんですけどね…)

 

カモンアップ山科でお世話になってもう1年以上たちますが、ハウスメイトたちはみな温和でのんびりとしていて、いつも和気あいあいと楽しく過ごせて、とても恵まれていたなと思います。


私にとって、第2の我が家のような場所。これからもずっと、みんなにとってそんな場所であり続けてくれるといいな、と願います。

Asuha
Asuha

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